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気ままさいと

       生い立ち

         −保育園編

                 宮内康裕

これからこのページに連載していくものは、十年前に約五年間、友人達と作っていた「自由に語ろう」という機関誌に載せていた自分の生い立ちで、僕は脳性小児マヒという生まれつき障害を持っていてそういった内容を含めながら書いている。皆さんのご意見やご感想などもお聞かせ頂ければ幸いである。

僕には宝物がある。それは友人であり、僕を支えてきてくれたたくさんの人達である。だからこそ、今の自分があるのだと最近つくづく感じている。大げさだと思われるかも知れないが、これは正直な気持ちだ。

そこでお世話になった方々に何かご恩返しが出来ないかとずっと思っていたが思い当たらず、せめて保育園から現在に至るまでの話やお世話になってきた事を文章にまとめ、それを読んでもらえたらよいなと思い、これから連載していくつもりだ。

僕は保育園から中学二年生まで地元の学校へ通っていた。そこで貴重な体験ができ、素晴らしい友人や先生にも巡り会う事ができた。

僕の通っていた保育園は山懐に抱かれており日本庭園が周りを囲み、春は梅に続いて桜、秋は真っ赤なもみじというふうにとても環境の良いのんびりとした心の和む保育園だ。

運動会やマリアの丘と呼ばれている裏山へ登ったり芋掘りに行ったり、砂場遊びをする時、自分は体が不自由にも関わらず保母さんや友人のさりげない手助けのお陰で障害を意識せずに参加することができた。 例を挙げるとオペレッタをやった時、僕が劇の最中に転んでしまったのだが、すぐに側にいた友人がごく自然に起こしてくれたそうだ。 

また、ここの保育園は江戸時代から続く屋敷内に建てられているので至る所に段差があるが、保母さんの手が離せない時には友人達で抱えて連れて行ってくれた。多少恐怖感はあったが子供心にも行為を無にしてはいけないという気持ちがあり、やってもらっていたのだと思う。それから中には他の子を蹴ったり、はたいたりするちょっと元気過ぎるくらいの子が居たらしいが、自分はいじめられた記憶ぱ全くなくみんなからすごく優しくしてもらっていたと思う。

これも保育園の方々や友人のお母さん方(同年代だけでなく)の暖かい理解や協力でやってこられた事なのだと思っている。今でも先生やお母さん方には何かとお世話になっていて感じるのだが、周りのバックアップがなかったら多分親子共々、駄目になっていたのではないかと思う。

そして今でも付き合っている友人達の事を思うと、本当に統合教育の素晴らしさを身にしみて実感させられる今日この頃である。 


       生い立ち

         −小学校編(前編)

                     宮内康裕

今回は小学校に入るのに困難だった事や、その苦しさを自然に取り払ってくれた友達などの事について書いて行こうと思う。

地元の保育園でごく当たり前の生活を送っていた僕は、小学校もまたみんなと普通に通えるものだと思っていたがしかし、現実は子供には予想もつないような大きな障壁が待ち受けていた。

それは、1979(昭和54)年に全ての子供が教育を受けられるという法律が定められ、養護学校や訪問教育(養護学校に通う事が極めて困難な子供のために先生が子供の家に訪問して指導する方法)などという特殊教育が盛んに叫ばれるようになり、養護学校の建設が各地で急速に広まった。確かにこの法律のお陰で就学率は百%になりはしたがその反面、障害者自身(またはその家族)が普通学校を希望しても養護学校への強引な入学指導が行われるといった問題が出てきた。

そして自分が入る時も例外ではなく、十月頃から地元の小学校へ入るための運動を始め、しょっちゅう教育委員会が家に来ていた事をおぼろげにも覚えている。

保育園の方々や同級生、下級生のお母さんなどが親身になってどうしたら地元の学校へ入学できるかを考えて下さり、例えば署名活動を行った方が良いのではないかという意見も出してくれたそうだが、結局それは地域との対立が起こってしまう可能性があり、それではまずいという事で実行はされなかったものの他にも一緒に話し合ってくれたり、悩んだりしてくれたという話を聞いている。

それから忘れてはならないのがやはり、母の並々ならぬ努力だ。県の就学判定に行った時も県教委にいろいろと傷つくような事を言われたそうだ。それにも関わらず母は、僕を地元の学校へ入学させようと必死で頑張ってくれた。そういう母がいてくれたからこそ、僕は素晴らしい友達や先生、お母さん方などと巡り会う事ができたのではないかと思う。

そして三月三十一日、長きにわたった話し合いは今、僕が聞いても腹が立つような納得のさせ方で結論を出した。その内容としては籍は養護学校の訪問部で、一週間に一回、一時間だけ地元の学校へ通えるというもので、様子を見て増やして行くという事だった。だが母は幼い僕にがっかりさせないために、みんなと一緒の学校へたった一回でも通えるようになった事は大変嬉しい事なのだというような伝え方をしてくれたので、僕は落ち込まず自然に喜べたのだと思う。また母は、じきに毎日通えるようになるものだと信じて望みをかけていたらしい。

実際に小学校が始まると、訪問の先生の付き添いで毎週楽しみにしながら学校へ通った。一回しか通っていなくても大勢の友達が学校へ行くと歓迎してくれた。また僕の家に友達が毎日、入れ替わり立ち替わり遊びに来てくれて庭に造った砂場で水と砂で泥まみれになりながら遊んだり、家の中でレスリングをしたりその他、家の近所を探索するなど今、思い出しても最近の子供達以上に子供らしい遊びが体験できたような気がする。

勉強の方は何しろ、学校へは週一回で訪問も二回なので母がこれでは勉強が遅れてしまうと心配して保育園の時の先生に相談したところ、養護学校の院内学級で週二回、三科目くらいずつやってもらえる事になった。残りの日は母と母の実家の祖母が、小学校と同じ授業時間となるように勉強を見てくれた。それは僕の毎日の習慣になり、小学校が終わる時間頃までやっていて時間はかかったが代筆ではなく、字は自分で書かないと気が済まないようになっていた。

それからこんな事もあった。訪問の先生が突然こんな事を聞いた。「やっちゃんの学校はどこ?」とっさだったが僕はためらわず答えた。「小俣小です」すると、訪問の先生とその横で聞いていた小学校の先生は苦笑いをしていた。その時僕はまだ二年生くらいだったのだが、どういうふうな意味を含んでいる笑いなのかだいたいの事は直感的に分かった。今、思い返してみても普通学校というものにかなりの執着を持っていたという事を感じる。「小俣小です」と答えた後で本当は言わない方が良かったのではないかと子供なりにもあれこれ悩んでいたが、これは子供の素直な気持ちから出た言葉で、大人だったら思っていてもとても口には出せない事だと思うので、それが伝わっただけでも意味があったのではないかと原稿を書きつつ、つくづくそう思った。

また弟が生まれた事により僕の世界が広がり、精神的にも励みになった。

三年生になると思いがけない嬉しい事が舞い込んでくる事になるが、それは三号に譲る。


       生い立ち

         −小学校編(後編)

                     宮内康裕

前回では、小学校入学時や入学後に起きた様々な問題を書いてきた。

三年生になると、これまでとは全然違う状況の変化となった。それは今まで地元の小学校に一週間に一回、一時間だけ通えるという事だったのだが、母がもう少し小学校に行く時間を増やしてもらうように交渉して四科目くらいに増やしてもらう事ができた。また学芸会などのいろいろな行事にも参加できるようになったのもこの頃からである。

遠足や工場見学なども一年生の時から一緒に参加させてもらっていたが、籍が無いのでみんなと一緒のバスには乗れず母の車でバスの後ろからついて行くという方法で、それは何とも言えない寂しさだった。しかし、三年生くらいだったと思うが地盤沈下をしてしまった所で有名になった大谷観音や県庁に遠足に行った時は保育園以来、久々にみんなと一緒にバスに乗れたのでバスの中で友達とはしゃいでいた思い出がある。そして、大谷観音の石段では小学校の先生が僕をおぶって登って下さった。まだあの時の先生の暖かくてでっかい背中の温もりを覚えている。それ以後も先生の背中には度々お世話になった。僕の家は小学校のすぐ裏なので、餅つき大会などがあると先生が学校から迎えに来ておぶって連れて行って下さった。

僕が学校へ行った日には授業が終わって帰る時、友達が家まで送ってくれた。

僕は養護学校の訪問部だったので一年生の時から週二回、先生に来てもらっていて、その内の一回は小学校に付いて行ってもらっていた。よく小学校の帰りや、家での授業をした後に散歩やテレビゲームなどをして遊んでもらったものである。

今、振り返ると養護学校という存在は嫌いだったのだが、先生方に対しては全く別な意味での純粋な気持ちで好きになれたのだと思う。

今でも小学校の先生や訪問部の先生から年賀状を頂くが、当時の事を思い出していたら、無性に会いたくなってしまった。

学芸会にも様々な思い出がある。毎年十一月の末頃にあり、寒がりの僕にはとても寒かった。体育館なのでよけいにそう感じたのかも知れないが、衣装が薄いと更に輪をかけて寒い。出番になるまで手をさすって下さった先生もいた。

「猿カニ合戦」をやった時、僕はカニの役の中の一人で「もう、悪い事はしないな」とたった一言のセリフだったのだが今でもとても印象に残っている。なぜなら、小学校の学芸会に初めて参加した劇だったからだ。そして、僕は今でもそうなのだがその頃は人一倍、大勢の前でしゃべるのが苦手ですぐ緊張をしてしまい、普段から小さい声が余計に固くなると声を出しづらくなってしまって、初めての劇の練習でも正にそれだったが、練習を重ねるごとに次第に慣れてきて声が出るようになった。友達も僕が緊張をしてしまってしゃべるのが遅くなってしまうのにも関わらず、言い終わるまで待っていてくれた。その他、カーテンの陰からステージに行く時に友達が僕の乗っている木の椅子を押して行ってくれた。ついに本番の日がやって来て僕のセリフの場面になり、友達に押されてステージに立った。心の中で「いよいよだ」と呟きながら、自分の持っているありったけの声を出した。後でみんなにセリフが聞こえたかどうか聞いたところ、友達も見に来ていたお母さん方も良く聞こえたとの事だったので練習の成果が発揮出来て本当に良かったと思いながらホっと胸を撫で下ろした。その学芸会の写真に横で心配そうに僕の顔を覗き込んでいる友達の顔が写し出されている。そしてまた、六年生ではナレーターをやらせてもらった。

養護学校の訪問部のスクーリングが月、一回あったが、今だからはっきり言ってしまうとそこでは友達は出来なかった。

四年生になると音楽も出来るようになったが、五年生になると音楽の先生が替わった為にできなくなってしまう。どうしてかと言うと、楽器を使う授業になるからだそうだ。でも四年生の時にも笛等の楽器を使っていたが「特別な事はできないけれども、音楽を一緒に楽しめるのならどうぞ」という事で参加していたのだ。この事を考えると、先生の解釈の仕方や考え方の違いで大きく左右されてしまうという事実を一、二年生の時の事も含め、非常に残念に思えて仕方がない。

次の例も同じような意味の事ではないのかと思うのだが、五年生の工場見学に参加させてもらった時の事である。小学校側は参加する事を承諾してくれた。丁度その日は養護学校の訪問日と重なっていたので、母はその先生に付き添ってもらえるように頼んだところ、養護学校の校長に「ウチの職員に何か事故でもあると困るので、付いて行かせる訳にはいかない」と言われてしまったそうだ。それで仕方が無く、母が付いて行く事になった。しかし工場に着くと訪問部の先生が来ていたので、母と僕はびっくりした。先生の話によると、校長が「偶然に行き会った事にして行って来るように」と言ったらしい。今考えるとそのような事は日常茶飯事で、立て前ばかりを気にしていたために起きていた問題だという事を感じる。それはやはり籍は養護学校にあるにも関わらず、小学校との交流もしていた結果によるものだが、だからと言って養護学校に入ればその子にあった適切な教育が本当に受けられるのだろうか。僕の経験から言わせてもらうと、大人達の偏見だけで勝手にそう決めつけているだけとしか思えない。もし子供の事を第一に思っているのだとしたら、まず本人や家族の意見が優先されるはずではないか。

六年生になると、とうとう毎日二時間くらいずつ通えるようになった。一年生の頃から比べると、それは夢のような事になったがそれでも僕にはまだ、満足したとは言い切れるものではなかった。

修学旅行は養護学校の方に参加した。とても楽しかった事は嘘ではないのだが、できるものなら小学校の友達との修学旅行を体験したかったのが本音だ。しかし仲の良い友人達が少ない小遣いの中から買ってきてくれた土産は、複雑な気持ちに駆られていた僕の心を癒してくれた。

秋になって母が突然片目の視力がほとんど無くなってしまった。原因は極度のストレスから来たものだったらしいが一般的には男性が多くかかる病気なのだそうだ。僕の長年の学校問題で、積もりに積もったものが一気にこのような病気として現れたのだろう。おまけに右手がしびれてしまい、僕の代筆をするのが大変そうだった。

そうこうしている内に、とうとういつの間にか波乱に富んだ小学校生活も終わりを告げようとしていた。

思えば小学校の入学から苦しい思い出もあったが、小学校の先生方がだんだんと本当の僕の姿を見て下さるようになり、お陰で楽しかった思い出の方が強い。その例が、小学校の卒業文集に僕の名前や文章を載せてもらえた事だ。そしてさらに、卒業式にも参加できるという予想もしていなかった嬉しい話が舞い込んできた。もちろん卒業証書は無かったが今でも深く心の中に焼き付いている程、素晴らしい卒業式だった。この間、久しぶりにその文集を開いて見ていたら胸に熱いものがこみ上げて来た。

これで小学校編は締め括らせて頂く。中学になるとまた違った進展があるが、それは次号につなげる事にする。


       生い立ち

         −中学校編(前編)

                     宮内康裕

五号では、念願が叶って普通の中学校に籍を置く事ができたが、いろいろと複雑な思いもしたという事を書いて行きたいと思う。

中学校に入るための準備は、六年生の三学期が始まるとすぐ、取り掛かった。しかしやはり、小学校へ上がる時のように普通学校への道は遠く、母もそんな状態で意気消沈してしていた時に保育園の時からお世話になっていて、小学校の入学時にも必死になって僕を支え続けてくれた上級生のお母さんに会い、母が今の状況を話したところ「絶対に普通学校の籍を勝ち取ろう」と励まして下さり、中学校のPTAの会長に話を付けて学校側と話し合う段取りを決めてくれた。それから中学校との何回もの話し合いが始まった。そして、小学校の卒業式前には地元の中学校に通えるという事に決まった。けれどもそれには、特殊学級に籍は置いてそこから普通学級へ通常の授業を受けに行くという条件付きだった。もちろん親達も最初からこの話に納得した訳ではなかったが、体育や技術家庭等僕には普通にこなす事が困難な科目がある為、普通学級にいたのではカリキュラムを全部消化する事ができないが、特殊学級に入っていれば受けなくても差し支えないからという学校側の意見でやむなく承諾した。今考えると、非常におかしい話のような気がする。何故かというと、それは登校拒否の子供等は全ての授業に参加していないはずだが、卒業できなかったという話は聞いた事がない。にも関わらずほんの数科目受けられないというだけでどうしてそんなにまずいのだろうか。どうしてもできないものがあれば、その時間だけ特殊学級でやらせてもらえば良い訳で、なにも完全に特殊学級に入らなくても良いのではないかと思う。それでは、特殊学級というものを作らないでもっと別の方法を考えれば良いかと言うとそういうものでもない。人それぞれの考え方があり、特殊学級を希望する人も少なからずいるからだ。寄って共通して言える事は学校や教育委員会が何処に入るのかを決めてしまうのではなく本人や家族がよく話し合った上で一番適している所を選択して行けば何の問題も生じないと思う。もし、家族と話し合っても埒があかないで迷っているという場合にのみ、学校や教育委員会のアドバイスを受ければ良いのだから…。

僕は、中学校へ通えるようになったという事を聞いた時は、養護学校ではなくみんなと同じ地元の中学校に籍を置く事ができて、大変嬉しいと感じていた。しかし、それも入学式までだった。

いよいよ入学式当日がやってきた。真新しい制服を着て、期待と不安が入り交じる中、体育館へと足を運んだ。それぞれクラス順に並び、僕も所属するクラスの所に並んだ。その時は何とも言いようのない爽快な気持ちになった。そして、更に一人ずつ名前が呼ばれ、僕の名前も呼ばれた瞬間、改めて「この学校の生徒になれたんだ」という喜びを噛み締めていた。そして、入学式も無事に終わりその後、各クラスで学級活動があるという事で僕も普通学級の担任の先生が教室まで連れて行ってくれた。ここでも強く「小学校の時の立場とは全然違う」と身にしみて思った。そう思ったのもつかの間で、もう少しで学級活動が始まろうとしていた時、悲劇は起こった。それは特殊学級の先生が迎えにきてしまったという事だ。せっかく小学校の頃のようにお客様としてではなく、○○中学校の△組の中の自分というように本当の意味でクラスの一員となった気がしていたのに、一気にその気持ちは打ち砕かれ屈辱的な思い出へと変えられてしまった。

顔からは血の気が引いて行くのが分かった。

特殊学級の教室は、普通学級の教室から大分離れた奥まった所で、一般の生徒では道を間違えるか、さもなければ用事でもない限り通る事はない。

だが、すっかり気落ちしながらその教室に入った僕に元気を取り戻させてくれた馴染みのある顔があった。それは、小学校五年生の時、親友がウチへ一緒に遊びに連れてきた事がきっかけで以来、仲良くなり、ちょくちょく遊ぶようになった彼の顔であった。彼がいなかったら登校拒否になっていたかも知れないと思う。今でも遊びにきてくれるのだが、立派な社会人として一生懸命頑張っている。

連れてきてくれた親友にも、本当に感謝しなければならない。

僕の友達の中で、この親友が小学校時代に連れてきて友達になった人は他にもいて現在でも付き合いが続いている。

いざ、授業が始まると大変な毎日になった。

この中学校の校舎は二棟あり、例えば一棟の二階から二棟の二階に行きたい場合に、一度一階に下りて新たに二棟の階段を上らないと辿り着かないという構造になっていた。

特殊学級の教室は二棟の二階にあって、僕の所属していた普通学級の教室は一棟の一階だったので、母が毎日僕を抱えながら上ったり下りたりを繰り返していた。途中から父の会社が週休二日制になって、土曜日は父に付いていってもらう事ができたので、多少母も楽になれたようだった。

先生方の対応はというと、普通学級の担任の先生や何人かの先生は小学校の時と同じようにだんだんと僕の事を理解して下さるようになった。一年生の時の担任だった先生は、か細い可愛らしい女性の先生なのに朝礼が終わった後、外まで抱き上げて連れ出してもらった事は今でも強烈的な印象として心に焼き付いている。

この話とは全く逆で、すごく嫌な思いをしてショックを受けた事がある。それは理科の時間で初めは教室でやる事になっていたのだが、理科の先生がきて急に戸外で授業をする事になったので、僕を表に連れ出すのを友達に運んでもらうように母がその先生に頼んだら、怪訝そうな表情で「ええっ!運ぶんですか」と言いながら渋々、友達に運ぶように指示した。その時はまだ、入学したばかりだったので中学校というのは怖い所なのだなとつくづく感じていた。最近母から聞いたのだが校長の方から先生方に手伝わなくても良いという事を言い渡されていたらしい。それでも手伝って下さった先生がいたという事に嬉しくなった。

また、ここの中学校は四つの小学校が寄り集まってできていて、クラスの半分以上が他の小学校からきた人達なのだが、慣れてくると後ろの席の人がノートを録ってくれたりした。  それから、母が僕の専用の椅子と机を運んでいると、違反の服装をした生徒達が頼まなくても援助を申し出てくれた。

特殊学級の授業では、普通学級でできない音楽や美術を受けていた。また、普通学級で受けられないとされる授業(技術家庭・体育・美術・音楽等)を行っている時にそこで宿題やテスト勉強に費やしていた。体育は、特殊学級でも参加する事は不可能とされ、その時間中も教室で過ごしていたが、母が普通学級の体育の先生に見学で良いので受けさせてもらいたいという事を頼み、普通学級での体育に出られるようになった。一年生の後半で保健の授業が始まったので、参加する事ができとても良かった。実技の見学も友達が風邪や怪我で見学すると、その人と話をしていられたので結構楽しかった。だから体育に限らず他の教科にも言える事なのだが、〜ができるできないではなくて一緒に参加して交流するという事の方が言葉では言い表せない程、素晴らしいものだという事が体験して身にしみて分かった。

僕は、中学校で自分が特殊学級に籍があったという事を最近まで知られまいとしてきた。だが先日、夏休みで帰省していた幼馴染みの同級生が二人、泊まりにきた時、中学時代の話題になって思い切ってその事を打ち明けたら、友達もうすうす感じていて疑問に思っていたらしい。僕はその事を言った後、胸のつかえが取れて晴れ晴れした気持ちになれ、より友情が深まったような感じがした。友達も僕の事をより一層理解してくれたような気がする。この新聞に連載をして中学校の事に差し掛かった時に書こうか書くまいかとずっと迷っていたのだが、打ち明けた事によって勇気がわいて書く事に踏み切った。

中学校に入る事が決まった時から、母が三年生になったら全面的な普通学級での体験をさせてやりたいと言っていたのだが もうすぐ二年生が終わるという頃に衝撃的な展開になるが、それは次号へ回す。


       生い立ち

         −中学校編(後編)

                     宮内康裕

今回は、二年生の後半から意外な展開へと変わって行ったという所から書き始めようと思う。

中学校生活も早、二年目になり、必ずしも満足していたとは言えないが、一年生の時から比べると理解して下さる先生が増え、自分も親達も精神的にかなり楽になっていたと思う。

テストは代筆で受けていて、他の生徒達とは別の部屋で手の空いている先生が付き添って行っていた。それでも一年生の頃は、だいたい決まった先生しかこなかったのだが、二年生になるといろいろな先生にやってもらうようになった。

また、すごく嬉しかった事がある。それはテストが近くなっていた頃、英語の先生が授業が終わって出て行く時、僕に一言「今度のテスト頑張れよ!」と予想もしないさり気ない励ましの言葉を掛けてくれ、強い感銘を受け今でもその言葉を時々ふっと思い出す事がある。

それから普通学級での授業中、急に移動しなければならない事になり、普通学級の担任の先生の授業だったのでその先生に階段を抱えて連れて行ってもらった事もあった。

そんな中でやっと先生方との距離が近くなって来たような気がした矢先に、突然飛び込んできた思わぬ出来事に当惑した。

二年生の後半になって高校進学の話が出てきた時、自分自身はもちろん前々から普通高校へ入るつもりでいたのだが、母親に言わせると、自分の体力はこれからどんどん衰えて行き僕は大きくなるばかりで、しかも普通高校も階段が多くてとてももう三年間付き添って行く自信が無いという事で、養護学校高等部に行く事を決めていた。

栃木県にも宇都宮市に肢体不自由の養護学校があるが、車で片道二時間は掛かってしまい、毎日通うには遠すぎるので隣の群馬県桐生市の学校なら、僕の家は足利市と言っても桐生寄りの所で車なら十五分くらいで行けて便利だという事で、数日後、早速、校長先生が桐生市の養護学校に問い合わせて見たところ、県外からの受験はできないので、もし入りたければ群馬県の住人になるしか方法がなく、更に受験の直前になってから移したのでは受けられないという返答だった。

その時すでに二年生の三月頃で、急遽、桐生市民になって四月から養護学校へ移る事になった。

桐生の養護学校はその頃、市立だったので市外でも入る事ができないで家族ぐるみで引っ越してきた人もいる程なのに、まして僕は県外なのにも関わらず家から通学する事ができたのは、桐生の役所関係のお陰で「桐生市民になれば通えます」と言われた通りにしたらすんなり入る事が出来た。とかく役所の人は杓子定規な考えだと思われがちだが、入学してからも様々な面でお世話になった。それから桐生市民になった後も足利市では、事情を良く掌握した上で福祉の面は足利で面倒を見てくれた。

正式に移る事が決まったのは春休みなので、良く遊びに来てくれる友達には移る事を伝えられたのだが、普通学級と特殊学級の先生やクラスメートには、僕の口からお別れを言う事が出来なかった。

あっという間に始業式の日がやって来た。まだなんとなく転校したという実感が湧かないまま養護学校へと向かった。

着くとまず目に飛び込んで来たのが、大分年期の入った校舎で、中学校もかなりのものだったがそれを遙かに上回っていた。そして緊張しながら校舎の中へ 入って行くと、校舎そのものは中学校より全然小さいのだが廊下が迷路のように複雑に入り組んでいて、ずいぶんと変わった造りの学校だなというのが第一印象だった

この学校は体育館が無く、体育館の代わりに合同教室という普通学級の教室二部屋分程の所を使っていて、始業式で初めて入った僕は、その部屋の小ささと知らない顔ばかりの生徒達が重なり合って挫折感と失望感に駆られた。

それでも一ヶ月くらい経つと、ようやく新しい学校にも慣れて来て友達も出来た。友達で電動車イスに乗っている子が、休み時間など楽しそうにしているのを見て、それまで学校の中では木の机付きの椅子を小学校からずっと使用していて、それは押して貰わないと移動が出来ないものだったのでより一層、退屈だと思うようになった。たまたま僕もその年の三月に電動車イスを購入したばかりで、早速毎日、学校へ持って行くようになり、自由に動き回れるようになって転校して初めて楽しいと思えるようになった。

またこれまで体育と言ったら見学ばかりだったのに対して、養護学校の体育では「ゴロバレー」や「ゴロ野球」等というボールを下から転がして行うもので、体を活発に動かせたお陰で健康的にも良い面でかなり影響があった。

この新聞の会の代表と知り合ったのもその頃で、同級生の割にはませていて、体も大きいなと感じていた。そんな彼が普通高校を受験して見たいと言い出した事を機に、僕もまだ少し普通高校に未練が残っていたせいだと思うが、二人で学文館の試験を受けるようになった。夏休みに親達だけで高校を何校か見学したが、どの高校もとても入れるような構造ではなかった。でも今考えると、厳しい現状が見られたという上でも無駄ではなかったような気がする

それともう一つ貴重な体験をしたのは、学校から選ばれて市の弁論大会に出られた事だ。以前から人前で話すのが苦手で、この日も朝から緊張し通しで、終わった後の爽快感が今も胸に焼き付いて離れない。弁論大会に参加するのにあたって、国語の先生には並々ならぬお世話になった事は言うまでもない。

担任の先生は一クラスに二人つく事になっていて、僕のクラスの先生は、あと一年で定年を迎える男の先生と女性のはきはきとした体育の先生だった。ある時、男の先生が僕に、いつも授業中は電動車イスでは勉強するのに不適当な机しか無かったため木の椅子で受けていて、終わるとまた先生に電動車イスに乗り移してもらっていたが、それではあまりにも大変なので、自分に限って学校で乗るのは学部会で禁止する事に意見がまとまったと話してきた。僕は頭をおもいきりハンマーで殴られたような感じだった。すっかり落ちこんでしまい、後でもう一人の担任の先生に聞いた事を確認したら、びっくりした様子で「誰がそんな事を言ったの?全然そんな話出てないから、心配しなくて大丈夫だよ」と安心させてくれた。また、高等部の入学試験が近くなっていた頃、母に「宮内君みたいな重度のお子さんは、落とされる確率が高いんですよね」と僕のいる前で説明していた事もあった。たがそんな辛い状況の中でも、他の先生方や友達、前の学校の友達がついていてくれたからこそ、何とかこらえながらやっていられたのだと思う。

高等部の先輩方にも、高等部に入る前から可愛がってもらっていた。

ある日の放課後に、電動車イスの先輩四人くらいと友達で学校近くの本屋に行った時の事だった。僕はまだ電動車イスの運転が未熟で、その日も先輩方に「商品にぶつけるなよ!恐いなぁ」と忠告を受けていた。自分では十分気をつけていたつもりなのだが、足がインクか何かに触れてしまい、たちまちそのインクがガラガラと音を立てて崩れて床の上に足の踏み場のない程の有り様になってしまった。あわてて店員さんが駆けつけてきて「大丈夫ですか」と言ってくれたが、驚きと申し訳なさとで体がこわばって声が出なかった。友達や先輩方もすぐ飛んできて代わりに謝ってくれた。帰り道しょんぼりしていると「もう、済んだんだからそんなに落ちこむなよ」と暖かい言葉を掛けてもらい、やっと元気を取り戻せた。しかし、更にこの時は先輩方に迷惑を知らずに掛けていた。内緒で出掛けるのかと勝手に思い込み、先生には伝えずに学校を抜け出して来てしまっていたので後日、怒られはしなかったものの、注意をされてしまったらしい。非難されても 当然なのに「今度は許可をもらってから来いよ」と笑いながら許してくれた。現在も先輩方には、いろいろな面でお世話になっている。

前の学校の友達は受験を控えているのにも関わらず、相変わらず会いにきてくれていた。

受験日の当日になった。担任の先生のあの言葉が頭を駆け巡っていて、試験が終わるまで心配で心臓が破裂する程ドキドキしていた。

数日後、待ちに待った高等部からの通知は合格との事でホッとした。

今回も特定の人を指摘してしまったが、事実は事実として受け止めて置いてほしい。

高等部に上がると、今までの人生の中でまるっきり新しい自分を築き上げる事が出来た。それらは第七号にて、載せて行きたいと思う。


       生い立ち

         −高等部編(前編)

                     宮内康裕

高等部の入学試験が終わったと思ったら、いつの間にか入学式の当日を迎えていた。中学部の時にも昼休み等に高等部に遊びに行ったりしていて、高等部の先生を大体知っていたのだが、やはり担任になる先生はどんな先生なのだろうかという事が気になって非常に緊張をしていた。しかし教室へ行くと、よく知っている若いさわやかな男の先生と新任の女の先生で明るそうな雰囲気だったので緊張も少しずつほぐれて行った。

他のクラスの先生方も熱意のある先生ばかりで、しかも学部の中で一番先生の平均年齢が若く小、中学部のお母さん方がうらやむ程いつも笑い声が絶えない活気に満ち溢れた楽しい学部で、それまでの心配が一気に吹っ飛んでしまった。

僕が入学をした年は女の先生が多くて、青春まっただ中にいる僕はその中に憧れを抱いている先生もいていろいろと悩んだ事もあった。後にこの先生は結婚してしまう事となり、その時は大変ショックだったが今、振り返ると良い思い出の一つである。

体育では、障害の軽度な生徒と僕のような重度の生徒は別れていたが、「ゴロバレー」などをする時には合同で行っていた。軽度の生徒達は手が効くため勢いのあるボールが飛び交い、自分も動作が鈍いながらも中学部の時よりも更に活発な運動が出来るようになった。僕はすぐ熱くなってしまう方で何とかしてボールを受け止めようと体全体を使っていたので、あちこちに生キズが絶えなかった。親友である先輩も他の子の電動車イスに頭をぶつけて鼻血を出してしまった事があるらしい。そこまでして真剣になれたのも全員が同じ立場でそれぞれが持っている力を出し切っていたからだと思う。

それから、授業を受けた事によって現在も引き続き大変役に立っている事がある。それは絵やパソコンなどで、美術で初めて油絵を描き筆がなかなか思ったような所に定まらない僕の手には何回でも塗り重ねられ、それによって微妙な色も出てくる油彩の特質が向いていると感じてそれがきっかけとなって描くようになった。パソコンの方は以前から興味はあったが、全然知識がなかった。しかしパソコンの詳しい先生に三年間、丁寧に教えてもらえたお陰で、まだまだ未熟だが大分使いこなせるようになった。

毎週授業が五時間までの日は学級活動の後に先生方は学部会という会議があり、僕は親が迎えに来るまで暇になってしまっていた。だが、英語の先生は非常勤講師だったので会議には出なくて、丁度その時間は空いていて、英語を見て下さるという事だったので毎週受ける事となった。

いつもいろいろな所へ連れ出してくれる親友が夏休みに、車で十五分くらい掛かる所へ電動車イスを使って買い物に行かないかと誘ってくれて友達は自転車で行く事になった。車で十五分と言っても何しろ僕の電動車イスは、時速四.五kmまでしかでなかったので相当時間が掛かる事は僕も友達も予想していた。こんなに遠くまで電動車イスで出掛けるのは初めてで胸がワクワクしている反面、不安な気持ちもあった。予想通り道のりは長かった。でも幸いその日は曇っていたので真夏でもそんなには暑くなかった。親友は小説を持って来ていて、自転車で僕より先に進んでおいて先の方の道端に止まり、そこで小説を読んでいて僕がまた追い越すと、後ろから追い抜いて行くという方法をとりながら目的地へと向かった。二時間程掛かってやっと着いた時は、今まで味わった事のないような充実感がこみ上げて来た。今まで遠くへ出掛ける時には、車に乗せて行ってもらうか手動の車イスを押してもらっていたので、その感激は経験のなかった僕には計り知れない程、大きなものだった。

それ以後も距離にして約六〜七kmの所に何回も一緒に遊びに行った。ただ決して同情や僕を訓練させようとするのではなく、本人も楽しみたいというだけの純粋な気持ちだったと僕は感じている。その彼は将来、実家を継ごうと理容師を目指して修行中である。

この事は僕に大変な自信を与えてくれて、しばらくすると以降の生活に重要な影響をもたらすようになる。


       生い立ち

         −高等部編(中編)

                     宮内康裕

給食は高等部では、毎日違った先生が食事介助に付き添う事になっていたので普段、授業を受け持っていないためにあまり交流のない先生方とも話せる唯一の機会だったので、楽しい時間の一つだった。

高等部に入学して八ヶ月が過ぎた頃だったと思うが、親友のお陰で3〜4qくらいの距離の所へは一人で買い物に出掛けられるようになり、ある程度運転にも自信がつき、電動車イスのバッテリーも意外ともつものだという事が分かり、僕はふと思いついた。それは電動車イスを使って自分で学校まで行けるのではないか、という事だった。今までずっと父や母に送り迎えをして来てもらっていて、もちろん僕も一人で通うなどという事は到底叶わぬ夢だと思っていた。そして、思い切って両親に相談してみた。案の定、猛反対を受けた。しかし、三十分もすると不思議な事に、先程とは気持ちの悪い程一転して急に母から許しが出た。その時はただただ、嬉しくて両親も分かってくれたものだと思っていた。

翌日早速、勇んで学校へ出掛けた。途中これでもし事故があったら、自分だけでなく親や先生に迷惑を掛けてしまいもう一人では外に出してもらえなくなってしまうのだ、という事ばかりが頭をよぎっていた。というのも電動車イスに乗りたての頃、一度どぶに落ちた事があるからである。

これは話が前後するが中学部三年生の春、小さい時通った保育園の先生に電動車イスに乗っている姿を見てもらいたくて、まだ運転が未熟だった僕はわざわざ人通りの少ない山道を選んだ。道沿いのお寺にお参りをし、ついでに六地蔵さんにも交通安全を祈願したその直後、僕はかすかな水音で気がついた。すると背中に電動車イスを背負った亀の子状態でうつぶせになってどぶに落ちていたのだった。水の中にいるのかと思っていたら、どぶ川の水はほとんどなく息はできた。やっと何が起きたのか状況が把握できて助けを求めなくてはいけない、と思い小さい声ながら喉がかれるくらいありったけの声を出して「助けて下さぁ〜い」と叫んだが、草が生い茂っているために僕の姿が見えず、しかもその場所は車は通るが歩いている人は滅多にいなくて、その時も車の音はちょくちょく聞こえていた。それでも諦めずに叫び続けた。十分かも知れない。三十分かも知れない。とてつもなく長い時間に思えた。心細さが次第に増してきた時、「大丈夫ですか」という声が上の方からして、見ると高校生が立っていた。近所の人と通りがかりの宅急便の運転手さんを呼んでくれて、一緒にどぶまみれになりながらも引き上げてくれた。後から母に聞くと知らせを受けて母が駆けつけた時、僕の格好は髪の毛の至る所に糸ミミズがたかっていたそうだ。怪我はかすり傷程度で済んだ事が不思議なくらいで、落ちた側溝の幅が電動車イスよりもわずかに狭かったので僕を押しつぶす事なく止まっていたし、バッテリー液の希硫酸もこぼれたが丁度、電動車イスのシートでまぬがれて僕の体には液がかからかった。それから、僕のわずかな声に耳を傾けてくれた事が幸運につながった。一週間後、その現場に行って見るとアスファルトがどぶに向かって崩れ掛けていた。

このような事を経験していたので、狭い道やかまぼこ状になっている所は慎重に神経を使いながら運転していた。後ろからクラクションを鳴らして「おはよう。宮内……」と言いながら、高等部の先生が追い越して行った。

無事に学校に着いた!!

でも、友達が「お母さんが後ろからついてきたんだろ?」と聞いてきた。僕は自分一人できたと思っていたので、最初はおかしな事を言っているなあ、と思っていた。他にも母に行き会ったという人が何人もいて、だんだん話の成り行きが分かり、多分心配で尾行して来たなと思い、帰ってから親に問いただしたところ、車で尾行していたが道が狭くなる所からは車を乗り捨てて歩いて尾行を続けていたそうだ。その結果、大丈夫そうだという事で自力での通学を渋々認めたが、しばらくの間、母が後からついてきたり、父が通勤途中わざわざ僕の通る道を迂回して職場に行ったりしていた。僕はそれがとても恥ずかしくて腹立たしかった。だから声を掛けられても知らないふりをしていた。

僕と家族で、よく電動車イスで登校していても学校で何も言わないね、と話していた。ずっと後になって分かった事だがあの日、校長先生から電動車イスでの通学は許可しない、という話が高等部の学部長の先生に伝えられていたらしいが、その先生は「禁止する事は子供の自立を摘み取ってしまう。一人で通学する事は将来きっと役に立つ。何かあった時には私が全責任を負います。」と言ってくれて、校長先生も納得したそうだ。自らの教育生命を賭けてまで僕の夢を実現させてくれた先生に深く深く感謝をしている。この先生とは現在、この「自由に語ろう」の顧問になって下さっているK先生である。

また、雨の日は濡れた合羽はもとより、びしょびしょになった洋服を取り替え、帰りは、冬なら厚いのと薄い手袋を二組、マフラー、ジャンパー、というふうに支度をさせてくれて高等部全体で支えてくれた。

帰り道、夕立やにわか雨に遭うと国道五十号線沿いのガソリンスタンドや商店等で雨宿りをさせてもらった。するとそこで家に居場所を連絡してくれた。そういう事が度重なるにつれて知り合いが増え、僕達障害者の存在を理解してくれる人が世の中に大勢いるのだ、という事を改めて教えられた。

ある夏の暑い日、いつものように走っていると子供連れの女の人が「いつもこの辺りで見かけるんですよ。今日はこんなに暑いから喉が渇いたでしょう」と言ってジュースを買って飲ませてくれた。僕は知らなくてもどこかで応援してくれているのだ、という事を思うと非常に勇気づけられる。毎朝、家の近くの小学校に登校して行く子供達に元気良く「おはようございます」と声を掛けられて可愛らしく感じた。

通勤で賑わっている細い路地で行き会ったバイクのおじさんが、さっと降りて来て「これ好きかい」と言って車のステッカーを置いてすぐまたバイクで走り去った。

その他、恐い経験もした。学校に行く時、独り言を言いながらほうきで電柱を叩いているおばさんがいて、おっかなびっくり通り過ぎようとしたら「こんな朝早く走るなよ」と言いながら、ほうきを振り上げ追いかけてきたと思ったらその人の家らしき所に入って行ってしまった。僕はホッとしたと同時に心臓がドキドキしてしまった。

人間ばかりではなくて犬に吠えられて追いかけられたり、小鳥に頭の上にフンを落とされたりもした。

今までは単調で平穏な生活を送っていたが、一人で通学するようになってからの日々はこれが温室の外の世界だったのかと気がついた。


       生い立ち

         −高等部編(後編)

                     宮内康裕

いつの間にか自分で通う事は、すっかり生活の一部に定着していた。

学校帰りはいつも道草をしていて、家に着くのは七時くらいというのが日課となった。だから、電動車イスには自転車用のライトを前、後ろ合わせて四個と車のライトで反射する反射板をたくさんつけた。高等部の先生の中に「安全のために黄色の旗も立てた方がいいぞ!」という先生がいたが、格好をまず先に気にする僕にはそれだけはどうしてもできなかった。

通い出して初めての冬が訪れた。朝、登校する時には赤城から吹き下ろすからっ風が、顔目掛けて容赦なくぶつかってまる。渡良瀬川に沿った堤防のサイクリングロードを通学路としていた僕は、あまりの強風でまともに前へ進めないので仕方なくバックミラーを頼りにしながら後ろ向きでそこを通過した。また、雪の日には両親が引き留めるのも聞かず、合羽を着て雪に埋もれながら行った事もあった。

この年は生まれて初めてしもやけというものが耳たぶにできてしまったが、体の方は丈夫になり、毎年大風邪をひいて一週間は寝込むのだが二日程で回復した。それから、リンパ腺が片方だけ痛かったが医者もただの風邪だという事で注射をしてもらい、気分も良くなったので安心してその足で学校へ行ってしまったが、約一週間後、弟が高熱と両方のリンパ腺が腫れ医者に掛かったところ、おたふく風邪と診断され、僕がひいた風邪もおたふく風邪だったのかも知れない。

通学の途中に、渡良瀬川に架かった「松原橋」という長い橋がある。ここで数々のエピソードがある。この橋は、車道と歩道がどこまでも続き見通しが良く、しかも歩道を通る人は少なく僕の姿を見つけやすいせいか、何人もの人から「松原橋の上で見掛けました」と言われた。

寒くなりかけた秋のある夕刻、いつものようにそこを通っていたら電動車イスのバッテリーが急に減り始めたのに気がついた。なぜ、こんなに減りが早いのだろうと思いながらも、まだ残量に余裕があったのでそのまま走り続けていた。丁度中頃まで来た時、動きが鈍くなり、車輪も片方に傾いてしまった。

パンクだ!!

少し戻った所にホームセンターがあるのでそこまで何とかして行こうとしたのだが、もうにっちもさっちも動かない。助けを求めようと思っても、普段でも歩行者の少ない所なのに夕方なので誰も通らない。冷たい秋風だけがヒューっと吹き抜けて行った。仕方がないので車に乗っている人に止まってもらおうと手を挙げたり、わざと下を向いたりして一生懸命パフォーマンスをしたが一向に止まってくれる気配がない。それもそのはず、車を止めておけるような場所はなく、もし車を止めればその車も事故になりかねない所なのだ。その時、向こうから自転車の明かりが見えた。今、あの人に助けてもらわないと当分、人は通らないと思い近づくのを待ち構えていた。側を通り過ぎようとした時、必死で「すみません」と声を掛けた。一度は通り過ぎてしまい駄目だと思ったが、すぐに引き返してきてくれた。事情を話し家に電話をしてもらうように頼むとホームセンターまで行ってくれた。後でお礼をしようと思い名前を聞き、家に帰り電話帳で調べたが同じ名字が何件もあり、とうとう分からずじまいでそれっきりになってしまった。

これとは全く別の話もある。やはり学校帰りの事で、普段通り「松原橋」を走っていたら救急車のサイレンの音がしてだんだんこちらへ近づいてきた。この近くで病人か事故が発生したのだなと思っていた。救急車の姿が目の前に見え、すれ違おうとした。と、その瞬間、僕の真横でピタリと止まった。何がなんだか分からないでいたら数人の救急隊員が出てきて「大丈夫ですか?今、車イスの方が気分が悪そうにしていると通報があったので」と言って、いつでも救急車に乗せられるように後ろのハッチを開けていた。僕は恥ずかしいやら、情けないやらで緊張しながら「い、いいえ、僕はただ信号待ちをしていただけなんです」と弁解した。救急隊員は「ああ、そうですか。それならいいんです。気をつけて帰って下さい」と言いながら救急車は行ってしまった。松原橋の真ん中なので他の車の人達も見ていただろうと思ったらまた恥ずかしさが一層込み上げてきた。家族や学校のみんなに話したら大笑いされた。心配してくれるのは有り難いが通報する前に一言声を掛けてからにして欲しかった。消防署の方々にも余計な仕事をさせてしまい迷惑を掛けてしまうからだ。あの時、信号待ちをしながら首の体操をしていたところを勘違いされたのだと思う。

先生や友人等で遊びに行ったりもした。特別思い出深いのは、今年亡くなってしまった後輩と「高校生クイズ」に出た事で、あれが一緒に遠出をした最後だった。それから、初めて女性の先生にトイレ介助をしてもらった事で以来、誰にでも頼めるという自信がついて現在のように一人でどこまででも行ける強い自分に成長する事ができたのだと思う。

電車は友人に車イスごと乗れるという事を聞き、利用するようになった。

度々、足を運んだデパートの中の若者向きの服を売っている店で、そこの店員の人達と知り合いになった。いろいろなものを割り引いてくれたり、秋口になると学校で職場実習が二週間程あってそこで働かせてもらえるように頼んだら快く引き受けてくれた。そして他の人に紹介する時、いつも友達だと言って紹介してくれたのが身にしみて嬉しかった。他に、家電屋や様々な店の人とも親しくなってしょっちゅうお世話になっている。この紙面を借りて心からお礼を言いたい。

今まではどこへ行くにも親と一緒で友人以外は親を通しての人間関係だったが、親から離れた事により自分で新たな関わりを築き上げる事が出来た。